「不幸」は事実ではなく、「主観」
つまり出来事、日常、将来、今この現在を
自分がどう捉えているかが大事だが、
そんなことは分かっている
でもそこから抜け出せないから困っているのだ
とあるブログをみて、分かった
不幸依存、悲観依存、うつ依存…
何にせよ、結局自分は不幸でいることに
依存し、その効用として誰かに愛のある言葉を投げかけ「続けて」欲しいのだ
投げかけ「続けて」がポイント
継続的な欠乏欲求により、継続的な愛を欲している
母親から無償の愛をもらえるというのがまず思い込み…幻想。
そしてそれが満たされなかったがために、
母親代わりを誰かに求める
それをもらうために、人のために一生懸命何かを頑張って尽くす
他人はそんなことはつゆ知らず
返報性の愛をくれるはずもなく、
自分が提供している愛は、本当の愛ではなく、「返報性」を期待している自己満足
当然それは満たされない
そもそも「愛」という言葉自体、主観的なものに過ぎず、脳が作り出す感情という作りもの
実は「愛」は特に人生において必要ではないのかもしれない
むしろ、中途半端な愛は足枷になる場合もある
自分を愛するようにとよく言われるが、
そんなことなかなかできない
というよりも、実はそんなもの無意味の産物だと無意識の自分は気づいていたんじゃないか?
だから自分を愛することなんてできないし、自分を愛さないといけないということ自体がナンセンスなのではないだろうか?
自分や他人への「愛」っている?
本当の「愛」は意識的ではなく、無意識で自然なもの
だから、作り出そうとするものではない
「愛」とか難しいこと言わずに、ただ生きればいいんじゃない?
そしたら多分、自然に「愛」が漏れ出てくるよ
呼ぶとすればそれが「愛」なんじゃない?
でもただ「生きればいい」
自分を愛する、愛さない、そんな難しいこと考えるの、やーめた!
不幸に依存すること、「不幸ごっこ」
やーめた!!