苦しかった時間は財産

その苦しい経験は誰もが手にすることができる経験ではない

 

経験は財産として、人に語れる説得力、エビデンスのあるものになる

 

ストレスフリーの人の話より、凄惨な経験を乗り越えた人の話の方が説得力と共感を生む

 

これは大きな財産であり、自分にしか持てないコンテンツである

幸せでも不幸でも、どっちでもいい

生きてればいい

ご飯が食べれてばいい

寝るところがあればいい

服が着らればいい

 

いいことなんかなくてもいい

 

諦めではなく、幸か不幸かの執着を

手放せばいい

 

幸か不幸かをいつも探しているか、

評価しているから

その現実とギャップに苦しむ

もしくはそのアップダウンに疲弊する

 

アップダウンは自分が勝手にそのように評価しているだけ

 

「幸せでも不幸でも、どっちでもいい」

今日1日を大切に

1日1日。この瞬間、今この時間を大切に、大切に。過ごしていこう

幸せは、穏やかな時間、楽しい時間、ツラい時間も含めた、それぞれの時間の小さな時間の積み重ねに過ぎない。

今、ご飯が食べれればいい。

ぼーっとできたらいい。

落ち込んでても空気が吸えてればいい。

幸せを感じなくても、生きてればそれでいい。

無理矢理ポジティブにならなくてオッケー。

今、ここにいるだけでオッケー。

不機嫌も上機嫌もいらない

上機嫌になりたいと思うから不機嫌になる

 

あくまで保つべき心の状態は、目の前の状況がどんな状況に置かれてもフラットでいること

 

水平器の真ん中を狙うように、フラフラしながらも、うまくフラットの状態、つまり「無」の状態にもっていく

 

湖の水面であるかのような心というのは、

もちろん不機嫌ではない

そして上機嫌でもない

 

不機嫌も、「上機嫌」もいらない

あんな理不尽なやつのために

あんな理不尽な物言いをする奴なんかのために自分の大切な時間、「今」を不機嫌に過ごしてたまるか

 

お前の理不尽は、俺の「ご機嫌」に無関係。

 

お前なんかが、俺の心を支配するものか

 

俺の心は俺が主導権を持っているんだ

 

俺は大切な時間を楽しくなくてもいい、幸せでなくてもいい、せめて「無」でありのまま、

自然に心穏やかに過ごすことを決定する

「不幸ごっこ」はやーめたっ!

「不幸」は事実ではなく、「主観」

 

つまり出来事、日常、将来、今この現在を

自分がどう捉えているかが大事だが、

そんなことは分かっている

でもそこから抜け出せないから困っているのだ

 

とあるブログをみて、分かった

不幸依存、悲観依存、うつ依存…

何にせよ、結局自分は不幸でいることに

依存し、その効用として誰かに愛のある言葉を投げかけ「続けて」欲しいのだ

 

投げかけ「続けて」がポイント

 

継続的な欠乏欲求により、継続的な愛を欲している

 

母親から無償の愛をもらえるというのがまず思い込み…幻想。

 

そしてそれが満たされなかったがために、

母親代わりを誰かに求める

 

それをもらうために、人のために一生懸命何かを頑張って尽くす

 

他人はそんなことはつゆ知らず

 

返報性の愛をくれるはずもなく、

自分が提供している愛は、本当の愛ではなく、「返報性」を期待している自己満足

 

当然それは満たされない

 

そもそも「愛」という言葉自体、主観的なものに過ぎず、脳が作り出す感情という作りもの

 

実は「愛」は特に人生において必要ではないのかもしれない

むしろ、中途半端な愛は足枷になる場合もある

 

自分を愛するようにとよく言われるが、

そんなことなかなかできない

 

というよりも、実はそんなもの無意味の産物だと無意識の自分は気づいていたんじゃないか?

 

だから自分を愛することなんてできないし、自分を愛さないといけないということ自体がナンセンスなのではないだろうか?

 

自分や他人への「愛」っている?

本当の「愛」は意識的ではなく、無意識で自然なもの

 

だから、作り出そうとするものではない

 

「愛」とか難しいこと言わずに、ただ生きればいいんじゃない?

 

そしたら多分、自然に「愛」が漏れ出てくるよ

 

呼ぶとすればそれが「愛」なんじゃない?

 

でもただ「生きればいい」

 

自分を愛する、愛さない、そんな難しいこと考えるの、やーめた!

 

不幸に依存すること、「不幸ごっこ

やーめた!!